静かな夜だった。

もう虫の音も聞こえない。

聴こえるのは互いの呼吸だけだった。


「眠らないのか?」

体をずりあげ、相沢の隣に座っている竜崎に声をかける。

「いつ彼らが戻ってくるかわかりません。」

先ほどまで体を嬲られ、せつなく鳴いていた人間とは思えない冷静な声が答えた。

「だが…疲れただろう。俺が起きているから、少しは休め」

上司に対する口の聞き方ではない。だが竜崎はそれを止めない。普段の相沢は上司・竜崎への反抗心を 無意識に敬語をはぶく事で表していたが、今、相沢は薄い毛布以外何もかも剥がされた竜崎を、 暴力を受けた年下の青年として認識していた。細い肩は妙に庇護欲をそそり、優しい言葉をかけたくなる。
竜崎もそれを感じたのか、唇の端で少し笑ったように見えた。

「そうですね、では何か…話をしてください」

「話?」

「お子さんの話でも。−−−お嬢さんと、お腹の赤ちゃんは男の子でしたっけ」

「ああ…。」

竜崎におそらく家族はいない。
酷い目に合った事で、暖かな話を聞きたいのかもしれないと相沢は感じた。自分の家族は平凡で、話すほどの 事もないが、竜崎にとっては平凡とはいくら望んでも手に入らないものなのかもしれなかった。
そう思うと、いくらでもつまらない話をできる。妻の名は恵利子。娘は由美。お腹の子の名を考えても 考えても妻に却下される事。

「相沢さんはセンスなさそうですもんね」

「うるさい。なんの根拠がある」

だが、家族の話をしているうちに不思議と自分の心が落ち着いていく事に気がついた。
またやられた、と相沢は心の中で舌打ちをする。竜崎は自分の為に家族の話題を振ったのだ。酷い目に合い、暖かな空気に 包まれたかったのは相沢自身だった。
それを竜崎は見抜いていたのだ。

「…娘が産まれた時は…忙しくてまるで世話ができなかったんだが、」

聞かれてもいない話を相沢は語り続けた。

「息子も、どうせ世話はできないだろうな…だが子守唄を練習したりな、一応努力はしているんだ」

「子守唄?」

相沢は、竜崎が笑うだろうと思ってこの話をした。似合いませんね、と薄く笑うだろうと。少しでも 竜崎の心をほぐせないかと思っての事だったが、竜崎は意外な事を言い出した。

「唄ってください」

「ああ?」

「聴きたいです。日本の子守唄をそういえば聴いた事ありませんし」

「竜崎…俺の唄を聴いて笑いものにする気だろう」

「聴くに耐えなければ止めます」

まあ、そうだろう。そういう男だ。唄わないと言ってもあの手この手で唄わせるだろう。相沢はそう諦めると、 無骨な自分がかわいらしい唄を紡ぐ、という姿がどれだけ滑稽か考えて溜息を吐き、静かに唄い出した。







ゆりかごの唄を カナリヤが唄うよ
         ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごの上に びわの実が揺れるよ
         ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごの綱を 木ねずみが揺するよ
         ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

ゆりかごの夢に きいろい月がかかるよ
         ねんねこ ねんねこ ねんねこよ






竜崎は止めもせず相沢の唄を聞いていた。低い声で紡ぐ単調な曲はまるでお経だったが、耐えられないと制止する事もなく 窓の向こうの月を眺めていた。

「優しい唄ですね」

「そうか…?俺には何が言いたいのかよくわからん唄だが」

「そういえば有名な日本の唄を知っています。唄を忘れたカナリヤが柳の鞭で打たれそうになる」

「へえ…」

「それよりも…ずっと、いいと思います。あの歌詞も素晴らしかったですが、この唄の、誰かを優しく 眠らせる為だけに作られた歌詞の意味の無さは美しい」

そんなものかね。相沢はつぶやいた。
竜崎の頭が左右に揺れ、折り曲げた膝に額を乗せる。だが散々に貫かれた後ろが傷んだのか小さく呻くと、 居心地悪げに頭をもたげ背中を壁にゆるく預けた。

「 …  少しだけ 眠ります……   ………  」

その呟きはすぐに寝息にかわった。
閉ざされた瞼はやはり幼い。

ふいに右肩が重くなる。寝入った竜崎の体が傾き、頭が自分の肩にもたれていた。

ひとつの部屋に人が入ると、部屋の温度が蝋燭一本分ほど上昇すると相沢は聞いた事があった。 それがどれくらいの暖かさかはわからないが、今、相沢の肩はとても暖かかった。
優しいのは、誰だ。
伝わらない優しさなら、意味などないぞ。竜崎。
相沢が心中で呟く。


今、肩を無意識に暖める竜崎の頬も、自分の肩に暖かさを感じているといい。

願い事をするかの様に、相沢は窓枠に囲まれた小さな夜空を見上げながら思う。

小さな窓からは月が移動し、もう光は入らなかった。
かわりに無数の星が煌めく。
その意味のない美しさについて相沢は空が白むまでいつまでも考え続けた。